記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

出雲関係の話②

出雲族のご先祖様の話しの続きです。
私も調べてて1万年以上前に遡るなんて思ってなかったから、気楽に始める→いつになったら終わるのだ?不安→うわ。なんだこの量?→最初のほうもう忘れた。覚えてるとこから書こ。←今ここ。
今回も長くなりそうです。途中脱線とかしそうです。きっとM属性なんです。

出雲関係の話①の地図を参照してます。
上海の南、④の位置、河姆渡(かぼと)遺跡の炭化米を野生種と栽培種とを区別できる性質をもとに調査したところ、大部分は栽培稲「ジャポニカ米」であったが数%は原種・野生の米(野生稲「オリザ・ルフィポゴン」)が混ざってました。
長江流域が稲の栽培源流地であることがほぼ確定しました。
②の位置、仙人洞・呂桶環(ちょうとかん)遺跡でBC1.2万年頃、野生種から栽培種への過渡期の米粒の発見があることから「稲は、長江流域でほぼ10000年前くらいに栽培が開始された。」とされてます。

これらの稲は、日本の縄文時代に栽培されていたと思われているジャポニカ米と同じものであることを、DNA鑑定で証明されてます。このため、ジャポニカ米は中国中南部から直接渡来したと考えられ、また、縄文時代にすでに陸稲の稲作が一部にあったとする説が定着しつつあります。また、ジャポニカ米は日本の弥生時代の遺跡でも多数確認されてます。

イネの葉に溜まったケイ酸体がガラス化して出土するものを「プラントオパール」といい、これが日本の縄文時代の地層から多数出土しています。
日本最古と言われる岡山県、朝寝鼻遺跡(岡山県津島東)6400年前(=BC4400年)のプラントオパールは「河姆渡」型の稲でした。
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から「プラント・オパール」が大量に出土し、小麦などのプラント・オパールも見つかりました。
1番古い米は陸稲(熱帯ジャポニカ)で焼畑のような土地で他の雑穀と同時に育てられる丈夫な種類でした。
搬入ルートは「南のほうから琉球列島伝いにやってきた」と言われ、種子島の宝満神社の神田の赤米、岡山県総社市の国司神社の赤米は熱帯ジャポニカだとされてます。

古代までの水田からは熱帯ジャポニカを思わせるプラントオパールの比率が高いのに対し、中世以降の水田からは水稲の「温帯ジャポニカ」に変わります。
温帯ジャポニカは水田でなければ栽培できませんが、収穫量が多いです。
中国から朝鮮半島経由で渡来した水稲の「温帯ジャポニカ」は、渡来した時わずか2種類しかないので、弥生人が中国へ出向いて自ら栽培しやすい種を選んで持ち帰ったと考える方が、妥当性が高いと推論されてます。
遺跡から発見される米の研究によれば、熱帯ジャポニカは平安時代まで温帯ジャポニカとともに栽培され続けたとされてます。
温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの混合により耐寒性のある早生ジャポニカの品種が誕生したと考えらてます。

これら事から、少なくとも約3500年前からすでに陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたと発表され、また水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたといわれます。

河姆渡遺跡が滅亡した時期に日本へ苗族が最初に渡り、日本の岡山県・朝寝鼻貝塚(BC4400年)に水田を作り、馬橋文化は約4000年前から2700年前であり、その後、苗族が日本に渡ってきた二陣目が、日本の菜畑遺跡(佐賀県唐津市の西南部)BC700年の縄文時代の水田跡を作ったと推測されます。
その間侵略を受けて、徐々に日本に移民したように見受けられます。

米の他にも長江文明の影響が日本に見られます。
富山県小矢部市の桜町遺跡で見つかった縄文時代中期末(約4000年前)の高度な木組み工法が、7000年前の河姆渡遺跡の建築技法と一致していました。
黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人によく似た人骨があいついで見つかっており、1999年には江蘇省と太宰府の遺跡の人骨がDNA分析によって一致したと報告されてます。

苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されてます。
味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われます。
日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生する文明を持っていたし、そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であったので、両者ともに自然と共生し、平和主義の人だったため、D系統:O系統=1:1で残ったと推察します。
こちらは↓中国雲南省元陽区の棚田の写真を見ると、懐かしい感じがしませんか?五穀豊穣ってかんじ。
中国雲南省元陽区2
 
三苗族が分散して百越→苗族(雲南省)、リー族(黎族・海南島在住)として現在に至りますが、リー族には大人になると、入れ墨・お歯黒・髪を結う習慣があるらしいです。日本の江戸時代みたいですね。

笠狭崎(かささのみさき)は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られてます。

天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦でした。沖縄から九州に向かって漂着するルートがあったのです。
漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのでしょう。
鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のもので、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土してます。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土しています。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれています。
長江で育った民は高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたと考えられます。

日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とします。
笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたと思われます。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。