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寝言は「はい、今から出社します」(26)葛野坐月読神社

くだらない妄想を広げて楽しんでると、「ヤタガラス」の事を考えたとき、
イギリス特殊傭兵部隊の制服でククリナイフをもって、カラスの羽が生えてる人が出てくるようになりました(無茶苦茶やがな)
えーーっと・・・・・本人的には楽しいです。

松尾大社について調べたら、随分と第一摂社:月讀神社の壱岐氏が松尾社に影響を与えてるみたいなんです。
月読神も日本書紀でイザナギ自身が生んだ神の中で最も貴い「三貴子(天照大神、月読、スサノオ)」のうちの一人なのに、正体不明のぶっちぎりトップですし、面白そうなので深入りしました。

松尾大社 [第一摂社:月讀神社] 京都市西京区松室山添町
御祭神は月読尊。日本書紀によれば、顕宗天皇の三年(437年)、阿倍臣事代という者が任那(大和朝廷の朝鮮半島での領地4-6世紀)に遣わした時、神のお告げ、
「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔ひ造せる功有します。民所を以て、我が月神に奉れ。 若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」
と受けたので、京に還ると天皇に奏上して、山城国葛野郡の荒樔田(うたあらすだ)の地(桂川沿い、現在の上野辺付近)を神領として賜り、月読尊を祀る神社を創建し、壱岐県主・押見宿祢が神職として奉仕したと伝えています。
押見宿祢の子孫が(卜部姓)代々神職として世襲しましたが、文徳天皇の斉衡三年(856年)に水害の危険を避けて、松尾山南麓の現在地に移り(文徳実録)ました。
境内には聖徳太子社・御船社・月延石があります。
聖徳太子社は月読尊を敬祭された太子の徳を称えて祀ったとものといわれ、
御船社は、天鳥船神を祭神とし、毎年神幸祭の前に渡御安全祈願祭を執行する末社です。
月延石は安産石とも称し、神功皇后が腹を撫でて安産せられた石を、月読尊の神託により、舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求められ、当社に奉納されたという伝説(雍州府志)があり、古来安産の霊験を慕ってお参りされる人が多い神社です。』

祭神は『月読尊、伊耶那岐命尊、伊耶那美命尊を祀る。』と記すものがあったり、
月読神(月読尊を主祭神とし、高皇産霊尊を相殿に祀る。)とか、
「日本書紀」顕宗天皇3年2月条の月読神社の創建伝承では『高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主に奉斎された』とされてたり、
「日本書紀」顕宗天皇3年4月条では『対馬下県直が奉斎した「日神」の記載があるが、この日神も高皇産霊を祖とする』とか亦ゴチャゴチャしてます。

まー確かに「高良大社(こうらたいしゃ)」で高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)が「満珠・干珠(まんじゅ・かんじゅ)」を神功皇后に授けたことで三韓征伐・成功に導くとか言ってるし、海の干満は月の影響だから、辻褄はあってますね。
でも、高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神=徐福)が鎮座してましたが、高良玉垂命(スサノオ)に高良山は譲ったので、壱岐氏が祀ったのはスサノオ様だと思います。
日本書紀の三貴子の出生の逸話から見ると月読=月、天照=太陽、「スサノオ様」は「星」の神になるので、月読神ではありません。
現在では『主祭神;1柱、月読尊』となってます。

「聖徳太子が敬祭された」って言われたら、私の中ではウガヤ朝の王族しか浮かばなくなってますので、「いいね、いいね~♪」となります。

『御船社;天鳥船神を祀る。神幸祭の前には、この社において渡御安全祈願祭が行われる。』
鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)は、日本神話に登場する神であり、また、神が乗る船の名前です。
“船”は神の乗り物であり、“天”は高天原と葦原中国の往来を、“鳥”はその速さを表すといいます。
月讀神社のツクヨミが、元もと海人(壱岐氏)が壱岐島で祀った航海の神である事を示唆するといいます。

神功皇后(170?-269?)ゆかりの月延石(つきのべいし)は安産、子授けの信仰を集めます。
この石は、神功皇后の朝鮮出兵の際、臨月だった皇后が霊石を腰に挟み、帰還後の出産を祈願したという、鎮懐石(ちんかいせき)です。
石は筑紫国伊都(いと)県にありました。その後、落雷により三段に分かれ、630年舒明天皇は伊都に使者を遣わし、この割れた神石の一段を京都に持ち帰り、コレが月延石とされます。
残り2つは、壱岐市の月讀神社、福岡県糸島市二丈の鎮懐石八幡宮にあるとされます。

大宝元年(701年)には例祭が勅祭[天皇の使者(勅使)が派遣されて執行される神社の祭祀]と定められ、延喜6年(906)正一位勲一等、名神大社に叙せられ 江戸時代には衰退。松尾大社の摂社になったのは1878年(明治11年)からです。あら、随分最近ねえ。

月讀神社が出来た頃の大和朝廷は、任那問題が485?~585?年に重要課題で(任那滅亡582年)、その渡海ルートに位置する対馬・壱岐の重要度は高かったとされます。
そんな情勢の中、6中頃~7世紀頃、壱岐海人の統率者・押見宿祢が壱岐の月読神社を都近くに勧請し、月読の技・亀卜(きぼく)の技をもって中央祭祀に進出しました。
壱岐氏とは、押見宿祢の子孫で本貫地の壱岐を氏の名とし、後に壱岐国の県主(島造)となった名族で、押見はその祖に当たる人です。
壱岐は地理的に大陸に近いので、壱岐氏は早くから中国の亀卜の術をわが国に伝え、これを中央に伝播した氏族の一つで、神祇官にあった卜占(ぼくせん)の事に関与し卜部氏を名乗りました。
卜占という聖職に携わるこの氏族が、その本貫地で自分らの祖神と仰ぐ“月神”に、氏族の安泰と繁栄を記念すべく奉齊したのが、そもそも当月読神社の創祀だろうといわれます。

新撰姓氏録では壱岐氏の出自は中臣氏系氏族とされます。
中臣氏は宮廷祭祀を統轄してた為、卜占を職掌する壱岐氏が支配下に下り、中臣氏系譜に組みこまれたと考えられます。

月讀神社(京都市)の紹介でこんだけ。
次は神話における月読命についての話をします。
月読で大宮売命のラストのはずなんだ。

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