記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

寝言は「はい、今から出社します」(25)松尾大社

今日夫と刃物の話してて「ククリナイフ」が出てきました。私の妄想が暴走します。
だって、「ククリ」といえば私の中では「菊理媛」だからです。

ククリは、ネパールのグルカ族をはじめとする諸種族、およびインドで使用される短刀。
大きな特徴は「く」の字型の刀身と、その付け根にある「チョー」と呼ばれる「ω」型の刻みである。
「チョー」はククリには必須とされ、女性器を模したともされる』

「チョー」はシェルパ語(ネパールの少数民族の1つ)で「トルコ石の女神」、チベット語で〈トルコ玉の神〉の意。
「チョー・オユー(中国語)」はヒマラヤ山脈の山。

ネパールといえば大陸に残ってるD系統の皆様の住処ですし、山の女神を信仰するところも似てますよね。
グルカ族の強さは今でもミリタリーマニアの間で有名です。←この記事読んでかっこよすぎでシビレました。
見た目は日本人と変わりません。
小柄なので平地では不利ですが、山岳地帯では無類の強さを誇るそうです。
グルカの意味は「牛を守る者」だそうで、インドで牛はシヴァ神の乗り物ですから、或る意味「神を守る者」ですね。

「ヤタガラス」と呼ばれた賀茂一族の中の戦闘部隊はこんな感じかなーと妄想し、ウフウフするのです。

松尾大社の続きです。

『中津島姫命(なかつしまひめのみこと)は、宗像大社(福岡県宗像市)で祀られる宗像三女神の市杵島姫命の別名とされる。
創建由緒に関連して「本朝月令」「秦氏本系帳(880年頃)」は、
「正一位勲一等、松尾大明神の御社は、筑紫胸形坐中部大神が戊辰(668 or 608年)の年3月3日、松埼日尾〈日埼岑〉に天下りされた。
 (筑紫胸形坐中部大神、戊辰年三月三日、天下坐松埼日尾又云日埼岑。)
大宝元年(701)、川辺腹の男・秦忌寸都理が、日埼岑より更に松尾に勧請し奉った。また田口腹の女・秦忌寸知麻留女、はじめて御阿礼を立てた」と記す。
(戊辰年;大宝元年以前の戊辰年は天智7年・668、その前だと推古16年・608)
“御阿礼”(ミアレ・御生)とは神の降臨を意味し、“御阿礼を立てた”とは、御阿礼木(榊)に依り憑いた神霊を山麓に遷して祭祀を始めたことを意味する。』                                           

『中津島姫命は市杵島姫命の別名』
私が吐くほど調べた「市杵島姫」神社の中で「中津島姫命」が異名同体なんて言ってる所はこの「松尾大社」と「櫟谷宗像神社」&「先代旧事本紀」に書かれてるぐらいです。しかも、
『筑紫胸形坐中部大神』
中部大神が市杵島姫だなんて私は聞いたことありません。敢えて言うなら中津宮が近いかな?
そもそも、宗像三女神は誰が何処の島を守るか、古事記、日本書紀、社伝によってマチマチで、わざと誤魔化してるとしか思えなかった。(むきー!!) 
6個の記述中4個は「中津宮=湍津姫」です。
市比賣神社の所で「イチヒメ神社」について調べたら、
『金沢の市媛神社では「大市比買神(弁財天)」、富山県上市町の市姫神社は「市杵島姫命(いちきしまひめ)」』となってて、
市杵島姫と市姫(神大市姫)をワザと似たような名前にして、各地でチョイチョイ混ぜて混乱招いてます。
つーか、松尾大社でまさに、神大市姫(大宮売命)と市杵島姫がmixされてます。
市杵島姫、神大市姫って名前はたぶん記紀編さん以降に作られたと予想します。

天宮(あまみや)神社 (静岡県周智郡森町天宮576)
御祭神:田心姫命、亦の名、多紀理毘売命、奥津嶋比売命。湍津姫命、亦の名、中津島姫命。市杵嶋姫命、亦の名、佐依比売命、辺津島姫命。 
天宮神社は、由緒書によれば人皇29代欽明天皇(539-571)の御代筑紫国宗像三神を勧請し、文武天皇慶雲二年(705)に社殿を造営したと伝えられ、遠江国一宮小國神社とは金胎両部(密教用語で金剛界・胎蔵界)の一社にあるという。

宗像大社の創建は646年の大化の改新の後です。ソレより前に創設された神社ですから、後から政府の言いつけ通り祭神名を追加したけど、年号とかいろいろ変えるのを忘れたんじゃないかしら??

うん、まあ、最初から疑って読んだからからかも知れませんが、私の中では、
松尾大社の祭神は「湍津姫=大宮売命」ですね。
そうしとくと、各地で起こってる疑問も一気に解決します。

『創建由緒では大山咋神の記載は見えないこと』→姫神自体が大山祇神だから、2回同じことは言わなかった。『延喜式に当社祭神は二座とある』のは創作です。

『この神が祀られた経緯は、宗像の市杵島姫命が海上守護の性格を持つ神であることから、秦氏が大陸出身であることに由来するとする説がある』
→元々地元に居た「地主神」(山の神)に、九州の女神(海・川の神)を混ぜて身元不明にするための工作です。秦氏は政府の意向に従って神名を変更しましたが、松尾大社はちょっと頑張った跡がある。

『巫女が松尾大社の祭祀主体』→それはそうなんだろうな。ウガヤ朝上方様は代々はチャネラーで未来が観えるし。

『秦氏に加えて賀茂氏も創立に関与した』→いや、賀茂氏の祖先が大宮売命だから関与するでしょ。

『秦氏が作った木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社)で祀られる神、「あまてるみたま」は、近畿全域の先住氏族が祭ってきた太陽神=祖霊である。正体不明。』
→飛騨国民はBC1600飛騨から西日本に移動しているので、代々のウガヤ朝、上方様の役職名の事だと思います。ウガヤ朝は太陽信仰の国ですから、太陽神=上方様でしょう。

また、なぜイッパイある女神の中から宗像神が選ばれたかには諸説在ります。

大宝元年(701年)に神殿が造営された時、『大宝律令』が出来、祭神を律令制度の中に位置付けようとした年です。
天武天皇が胸形徳善(宗像氏)の娘の尼子娘を娶って高市皇子が生まれてから、宗像の神は全盛期となった為、大物の神に被せるなら宗像神になったとも考えられます。

「続日本紀」の同年記事に「山背国葛野郡の月読神・樺井神・木島神・波都賀志神等の神稲を中臣氏に給する」とあることから、松尾大社の祭祀についても中臣氏の神祇政策が背景にあるともいいます。
松尾大社の祭祀は、古くから秦氏(はたうじ)が担ってましたが、社務の実権は摂社月読社の中臣系の壱岐氏が掌握して、壱岐氏が松尾社の祠官も兼帯したと言われます。
壱岐氏が宗像氏と深く関わっていたことから、宗像神の勧請には壱岐氏が関わるのではとも考えられます。

ちょっと、余談ですが。
松尾大社の旧社地・松尾山(日埼岑)の立地位置をみるとき、松尾山は所謂“朝日の直刺す(タダサス)地、夕日の日照る地”であって、夏至の日の朝、比叡山(四明岳)に昇る朝日は真っ直ぐに松尾山を射し、冬至の日、四明岳からは松尾山に沈む夕日が真っ正面に拝され、これが、松尾山を日埼岑(ヒノミサキ)と別称する由縁だともいいます。
つまり、(24)の伝承中、「鳴鏑の矢」とは比叡山から射し込む夏至の朝日の非喩であるといいます。
“矢”が日光・雷光の象徴であることからみて、矢を持ち帰るだけで妊娠する伝承は、水辺の巫女が日光に感じて神の御子を生む日光感精伝承(太陽の光を浴びた女が産んだ赤玉からアカルヒメ神が出てくる話)の類型だとも言われます。
なんだか、松尾大社の秦氏は良心的だなーと思ってたら、秦氏・名前は絶対秘密コーポレーションの中、アカルヒメ族(部)だったかもしれませんね。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。